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『よい』教育ってなんだろう?

 『よい』教育ってなんだろう?

 小学校時代、先生が「よし」と思っていることが何となくわかってしまう僕は、いわゆる「いい子」だった。

 「これを答えてほしいんでしょ?」「こう動いてほしいんでしょ?」それがわかってしまうのだ。

 いわゆる“空気を読める子ども”だった。

 こういう経験って僕だけのものではないと思う。先生に言われたから動く。先生が思っているから動く。

 一例を挙げると宿題。自分は子どもの頃、宿題を自分から「やりたい!」と思ってやったことは一度もない(そもそも宿題ってもの自体、自分からやるものじゃないかもしれないけど…)。

 やっぱり、先生がやってほしいと思っているから。やらないと嫌われそうだから。怒られそうだから。

「しょうがない、やってあげるか。めんどくさいな。」

 そんな変な上から目線で宿題をやっていた。

 逆に宿題をやってこない“空気の読めない子ども”は先生たちから厄介者扱いされたりして…。

 そんな宿題をやってこないで怒られているクラスメートを僕は心の中で「バカだなぁ」と思ったりしていた。またまた変な上から目線で。

 そんな僕は“やらされる”勉強というものをどんどん嫌いになっていった。

 心の中で人を小馬鹿にするようになってしまっていった。

 

 教育のあり方って、本当にそれでいいんだろうか?

 

 この“違和感”は多分小学校の低学年の頃から思っていた。でもそれを言葉に表すことができなかった。先生に嫌われたくなかったから、言われたことを言われた通りにやるしかなかった。自分がどんどん悪い方向にいっていることにも気付かずに…。

 もしかしたら、僕が小馬鹿にしていた“空気の読めない子ども”って本当は、「やめてよ先生!僕は学ぶことを嫌いになりたくない!」って心の中で叫んでいたのかもしれない。それを説明できないまでも、直感的に感じて行動に移していたのかもしれない。

 それって、とっても人間的で僕より数倍頭がいいと思う。

 

 中学校、高校時代はもう勉強なんて大嫌い。授業中は寝たり、漫画を読んだり、落書きしたり、先生の口癖を授業中に何回言うか数えたり…。

 テストはもちろん一夜漬け。テストでは、平均点を取れればいいかなくらい。

 いつしか僕も“空気の読めない子ども”になっていた。

「つまらない授業をする先生が悪い!」

 またまた変な上から目線で言っていた。

 一つの幸運は、反骨精神を抱いて学校の先生になろうと決意したこと。こんな先生たちにはなるもんかって。

 そうして大学の進路は決まった。

 

 僕がもっていた“違和感”をやっと言葉にできたのは、大学生になって卒論を書いている時。

 何を書くか、自分が何を考えているのか、自分の“違和感”を言葉にすることができず、モヤモヤが募っていた。

 本を読むのは苦手、勉強も嫌いな僕だったけど、先生に対する憎しみから「書かなければいけない!」「この怒りを卒論でぶつけたい!」そう思っていた。

 

 ブレイクスルーは一冊の本との出会いだった。苫野一徳先生の『教育の力』だ。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

  教育とは何か、そしてそれはどうあればよいといいうるか。

 〜中略〜とりわけこの数十年、日本の教育政策は、どのように教育をつくっていけば「よい」のかという指針を見失い、右往左往してきた感が否めません。

 もちろんこの問いに絶対に正しい答えなどありません。しかしそれでもなお、「なぁるほど、たしかに教育とはこのような営みだし、このような教育なら『よい』といえるな」とだれもができるだけ深く納得できる“答え”は見出せるのではないか、わたしはそう考えています。

 

 最初の言葉から引き込まれた。 

 自分の中の“違和感”がすっきりと言葉として並んでいた。

 「腹に落ちる」、言葉では聞いたことがあったけど、実際に経験したのは初めてだった。

 そのとき初めて、僕は自分が「『よい』教育とはなにか」を小さい頃から問いていたんだということに気がついた。そしてそれが未だに解明していないことにも。

 

   今のところの出した答えは、誰もが生まれながらにもつ「センス・オブ・ワンダー」に手がかりがあるのではないかということ。

 

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

 

  

センス・オブ・ワンダー」を僕は「衝動」と「承認」の感度だと捉えている。それは平和への創造を導く可能性だ。その可能性を広げていく、伸ばしていく、教育ってそういうものなんじゃないのかな。

 

 今僕は小学校の先生として働いている。僕が嫌いだった先生たちになるまいと日々悪戦苦闘している。そうして見えてきたのは、子どもの頃には見えなかった先生たちを取り巻く制度の問題。先生になってみて初めて、「先生が悪い!」とも言えない問題がたくさん見えてきた。

 そしてそれが僕の小学校時代のように、またはそれ以上に、子どもたちにも伝わってしまっている。

 

 なんとかしないといけない。

 

    この僕の「衝動」を言葉として残しておきたい。

    子どものため。先生のため。

    それもそうだけど、まずは自分のために。

 その一歩をここから始めてみようと思う。