「子どものため」から考える「働き方改革」の「考え方改革」
「子どものため」を考え始めたのは、初任者研修のときだった。 初任者研修のとき、合言葉のように出てきた言葉「子供が1番」。
この言葉に引っかかりを感じた。それは怒りとも似た違和感だった。
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違和感を探っていくと、この「言葉」は教師を必要以上に頑張らせてしまう重たい言葉だということに気がついた。
そして、怒りの根源は、それを声高らかに初任者研修という場で“正義”として発せられていたことに対してのものだった。
土日休みに出勤すること、夜遅くまで残って仕事をすることが美化される風潮。
“指導”というマジックワードが付くだけで、その全てが教師の仕事として任されている実態。
今や「学校現場はブラックだ」と叫ばれ始めているけどまだまだ、本当にまだまだ考えていかなければいけないところ。
「子どものため」だから。
その「言葉」によって、教師が人として生きる権利がボヤけてしまう。
更に酷いのは、その「言葉」に従えない教師は、「教師としての自覚がない」というレッテルが貼られてしまうということ。そして、「子どものため」にできていない自分自身を責め、自分を傷つけてしまったり…。この「言葉」が教師を追い詰めてしまう。
初任者研修だからこそ気をつけて使わないといけない、そう思った。
それが怒りの根源だった。
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とは言いつつも、〈子どものため〉や〈人のため〉に仕事をするって、とっっっても大切だし、そうしてるからこそ励みになったり、生きる活力になったりする。
確かに僕自身、〈子どものため〉がなかったら教師はやっていない。
なんとかこの微妙なニュアンスの違いを表現できるいいイメージをつくれないものか…。
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僕がやっと辿り着いたメタファーは、〈子どものため〉や〈人のため〉は“土”だということ。
そして僕らは“植物”。
僕たちが生きる為に、成長していく為に〈子どものため〉や、〈人のため〉は必要不可欠。でも、それが僕たちに覆い被さってきてしまったら…。
たちまち僕らは枯れてしまう。
僕が苛立った「子どもため」という言葉の正体はここだった。土が上から覆いかぶさってきている状態。初任者研修で、土で埋められそうになる危機感が怒りとして現れた。
“土”と“植物”の関係ってそうじゃない。
“土”としての〈子どものため〉を栄養源としながら、自分を大きく大きく成長させていく。ゆくゆくは僕たちは、大きな大きな木となって、土の上に葉を落とし、本当の意味での〈子どものため〉に繋がっていく。
“土”で“植物”の成長を妨げてしまうこと、これは巡りに巡って“土”のためにはならないということ。
もしかすると、大きな木になるまでには時間がかかるかもしれない。でも、その成長は必ず“土”のためになる、そう信じること。
そして、“植物”は“土”から栄養をもらっているということを忘れないこと。
これがとっても大切だと思う。
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去年、こんな素敵な本がでました。
ブラックからワクワクへ。とってもいいキーワード。
みらいの教育―学校現場をブラックからワクワクへ変える (ワクワク対話シリーズ)
- 作者: 内田良,苫野一徳
- 出版社/メーカー: 武久出版
- 発売日: 2018/10/23
- メディア: 単行本
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youtubeにも!
ブラックからワクワクへの提案。〈子どものため〉は“土”だってこと。これが僕の一つの答えです。