いのたまクエスト

東京都の小学校教員。

かいけつゾロリ おどろき!あさどくしょ

 今日は朝読書の日。

 

 メ◯カリで新しく仕入れた本を教室の前に置き、「この本も読んでいいよ!」と黒板にコメントをつけておいた。

 

 『かいけつゾロリ』シリーズを25冊。

 

 さて、どうだろう。

 職員朝会を終えて、ドキドキワクワクしながら教室に向かった。

 

 いつもの感じだと、半分くらいの子が立ち歩いていて友だちと話している。中にはまだ朝の支度が終わってない子も…。「ほら、本読むよー」と声をかけてやっと本を読み始める、そんな感じだ。

 

 今日は…、果たして…。

 

 

 

 教室に入って驚いた。

 ほぼ全ての子が読書に没頭している…!

 

 その手には、『かいけつゾロリ』!!!

 クラスの半分くらいの子が『かいけつゾロリ』を持っていた。

 

 す、すごい…。恐るべし、かいけつゾロリ…!!

 

 

 

 こちらが圧倒されるほどの集中ぶり。

 1時間目が図書の時間だったので朝の会を飛ばして、そのまま続けることにした。

 

 

… 

 自分も子どもの頃、大好きだったなぁ。

 小学生だったとき、特に読んでいたものを少し思いだしてみた。

 

  

 記念すべき、1作目。武器の一覧表が載っていて、子どもの頃ワクワクしたのを覚えているなぁ。真似して描いてみたり、オリジナルの作ってみたり。

 

 

 

 これもおもしろかったなぁ。ゾロリがヒーローになるんだよね。バカバカしいけど、なんか感動する一作。

 

 

  

 これは、発売してすぐおばあちゃんに買ってもらったなぁ。料理をしたくなる。

 

 

 『かいけつゾロリ』シリーズを読むと創作意欲が湧いてくるんだよね。

 子どもたちの豊かな発想力を促進させる本だと思う。

 

 本は本来、面白くて、子どもたちにとって魅力的なものなんだ。本の力、面白さは偉大だ。

 その面白さとの「出会い」を陰ながら支えていきたい。

「読みなさい」

 なんてムリに読ませることなんて必要ないんだよな。むしろ、その言葉が本嫌いを加速させる。

 

 面白い本を手にできる環境を用意すること、これがまず大切だ。

 つまらなかったら途中で読むのをやめたっていい。その分、選べるだけの多様な選択肢を用意しておきたい。

 

 

「面白いのかわからなかったけど、みんなが読んでたから、読んでみたらめちゃめちゃ面白かった!」

 ちょっとやんちゃな男の子が友だちと話していた。

 想像でだけど、今日は最初、読書好きな7割くらいの子が本を自分から手にしていたのだろう。その空気というか、面白そうな雰囲気が読書の苦手な子の読む勇気に繋がったのだと思う。

 とりあえず読んでみる、チャレンジしてみる、この感覚を大切にしていきたい。そして、お互いに緩やかに刺激しあって、共に成長していく教室にしていきたい。

 

 んー、色々考えさせられたな。

 

 次は、『かいけつゾロリ』からいかに違う本に繋げていくか。ここが課題かな。 

 

 読書が自然な教室に。

 目指すビジョンが少し現実に見えてきた感じがする。

『よい』教育ってなんだろう。「問い」との出会い。ブログを始めた理由。

 『よい』教育ってなんだろう?

 小学校時代、先生が「よし」と思っていることが何となくわかってしまう僕は、いわゆる「いい子」だった。

 「これを答えてほしいんでしょ?」「こう動いてほしいんでしょ?」それがわかってしまうのだ。

 いわゆる“空気を読める子ども”だった。

 こういう経験って僕だけのものではないと思う。先生に言われたから動く。先生が思っているから動く。

 一例を挙げると宿題。自分は子どもの頃、宿題を自分から「やりたい!」と思ってやったことは一度もない(そもそも宿題ってもの自体、自分からやるものじゃないかもしれないけど…)。

 やっぱり、先生がやってほしいと思っているから。やらないと嫌われそうだから。怒られそうだから。

「しょうがない、やってあげるか。めんどくさいな。」

 そんな変な上から目線で宿題をやっていた。

 逆に宿題をやってこない“空気の読めない子ども”は先生たちから厄介者扱いされたりして…。

 そんな宿題をやってこないで怒られているクラスメートを僕は心の中で「バカだなぁ」と思ったりしていた。またまた変な上から目線で。

 そんな僕は“やらされる”勉強というものをどんどん嫌いになっていった。

 心の中で人を小馬鹿にするようになってしまっていった。

 

 教育のあり方って、本当にそれでいいんだろうか?

 

 この“違和感”は多分小学校の低学年の頃から思っていた。でもそれを言葉に表すことができなかった。先生に嫌われたくなかったから、言われたことを言われた通りにやるしかなかった。自分がどんどん悪い方向にいっていることにも気付かずに…。

 もしかしたら、僕が小馬鹿にしていた“空気の読めない子ども”って本当は、「やめてよ先生!僕は学ぶことを嫌いになりたくない!」って心の中で叫んでいたのかもしれない。それを説明できないまでも、直感的に感じて行動に移していたのかもしれない。

 それって、とっても人間的で僕より数倍頭がいいと思う。

 

 中学校、高校時代はもう勉強なんて大嫌い。授業中は寝たり、漫画を読んだり、落書きしたり、先生の口癖を授業中に何回言うか数えたり…。

 テストはもちろん一夜漬け。テストでは、平均点を取れればいいかなくらい。

 いつしか僕も“空気の読めない子ども”になっていた。

「つまらない授業をする先生が悪い!」

 またまた変な上から目線で言っていた。

 一つの幸運は、反骨精神を抱いて学校の先生になろうと決意したこと。こんな先生たちにはなるもんかって。

 そうして大学の進路は決まった。

 

 僕がもっていた“違和感”をやっと言葉にできたのは、大学生になって卒論を書いている時。

 何を書くか、自分が何を考えているのか、自分の“違和感”を言葉にすることができず、モヤモヤが募っていた。

 本を読むのは苦手、勉強も嫌いな僕だったけど、先生に対する憎しみから「書かなければいけない!」「この怒りを卒論でぶつけたい!」そう思っていた。

 

 ブレイクスルーは一冊の本との出会いだった。苫野一徳先生の『教育の力』だ。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

  教育とは何か、そしてそれはどうあればよいといいうるか。

 〜中略〜とりわけこの数十年、日本の教育政策は、どのように教育をつくっていけば「よい」のかという指針を見失い、右往左往してきた感が否めません。

 もちろんこの問いに絶対に正しい答えなどありません。しかしそれでもなお、「なぁるほど、たしかに教育とはこのような営みだし、このような教育なら『よい』といえるな」とだれもができるだけ深く納得できる“答え”は見出せるのではないか、わたしはそう考えています。

 

 最初の言葉から引き込まれた。 

 自分の中の“違和感”がすっきりと言葉として並んでいた。

 「腹に落ちる」、言葉では聞いたことがあったけど、実際に経験したのは初めてだった。

 そのとき初めて、僕は自分が「『よい』教育とはなにか」を小さい頃から問いていたんだということに気がついた。そしてそれが未だに解明していないことにも。

 

   今のところの出した答えは、誰もが生まれながらにもつ「センス・オブ・ワンダー」に手がかりがあるのではないかということ。

 

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

 

  

センス・オブ・ワンダー」を僕は「衝動」と「承認」の感度だと捉えている。それは平和への創造を導く可能性だ。その可能性を広げていく、伸ばしていく、教育ってそういうものなんじゃないのかな。

 

 今僕は小学校の先生として働いている。僕が嫌いだった先生たちになるまいと日々悪戦苦闘している。そうして見えてきたのは、子どもの頃には見えなかった先生たちを取り巻く制度の問題。先生になってみて初めて、「先生が悪い!」とも言えない問題がたくさん見えてきた。

 そしてそれが僕の小学校時代のように、またはそれ以上に、子どもたちにも伝わってしまっている。

 

 なんとかしないといけない。

 

    この僕の「衝動」を言葉として残しておきたい。

    子どものため。先生のため。

    それもそうだけど、まずは自分のために。

 その一歩をここから始めてみようと思う。